住職法話
2024.08.15 お盆法話
父の33回忌にあたり
本年は私の父、速水壽貫の33回忌にあたります。3月が命日なので家族でその時に法事は行ったのですが、樹木葬で新しい方々も増えましたし、この機会に私がよく法事で皆様にお伝えしている法要の意味合いを説明したいと思います。
うちのお寺では葬儀(別名:1回忌)から一周忌(別名:2回忌)まではそれぞれ特別な意味合いを持つ法要で、3回忌以降の回忌供養(3回忌、7回忌、13回忌、17回忌・・・)と呼ばれる法要は10年に2回ある故人を忘れずに振り返り、感謝する為の法要ですとお伝えしています。ただ、この法事の説明は宗派や寺院、あるいはお寺ごとでさえ違いますと伝えています。例えば13の仏様に33回忌まで、故人の生き方によってはお裁きを受けるのだ、という考え方があります。他にも両極端(2極)を超えて中道を目指す仏教の姿勢から「3」という縁起の良い数字に法事を行う、六道を超えた先に仏の世界に行かれますようにということで「7」のつく時に法事をするのだとも言われます。これ以外にもいくつもの考え方がありますが、どの意味合いを込めて法事をするかは皆様やお墓のあるお寺の考え方次第だと思います。
もう一つ、いつまで供養すれば良いですか、ということをよく聞かれます。33回忌が終わり、と一般的に言われるのは上記の13の仏様のお裁きが33回忌まで続くという考え方を元にしています。そこまでいけばどんな方もお裁きが終わるから弔い上げ(とむらいあげ)で先祖代々に組み入れて拝むんだという形です。うちのお寺でも一つの目安として33回忌と伝えることはあります。平均寿命で亡くなった親御さんを供養した場合、子供世代が供養できるのは33回忌くらいまでだからです。しかし、例えば早く亡くなった家族がいた場合、早めに33回忌を迎えます。それこそ私自身が最初に申し上げたように父親の33回忌を迎えてしまいました。この場合、父親の供養を個別でせずに先祖代々に繰り入れてしまって良いのでしょうか。余り良いことではないでしょう。逆に両親が100歳を超えるくらい長生きした場合、子供さん達は70歳程度でしょう。そこから33回忌まで子供さん達が供養できるでしょうか。もしできなかった場合は孫世代が引き継いで行うのでしょうか。私は難しいと思っています。うちのお寺が重視しているのは自分と縁の深い方、主に両親や兄弟、夫、妻のことを自身が生きているうちは忘れずに振り返り、供養してあげてくださいとお伝えしています。
先ほどの100歳を超えて親御さんが亡くなった方の場合、子供さん達が生きている間の法事(平均寿命の場合は17回忌程度)は必要だと思いますが、その下の孫世代はご自身の親世代の供養を考えるべきであり、祖父母世代に関しては親の供養の際に「先祖代々」として供養する形で良いと思っています。逆に私のように親が早く亡くなった場合、自分が元気なうちは法事を行うべきでしょうから33回忌で終わりとはならず、平均寿命で考えた場合は77回忌くらいまでやるべきなのでしょう。まだまだ先は長そうです。
仏教はその名の通り「お釈迦様(仏)の教え」を説いているもので生き方や考え方に関する記述が多いです。ただ、その中には死後の世界観、仏の国のことも説かれています。日蓮宗で一番大切だと伝えているお経は『法華経』の中にある『妙法蓮華経如来寿量品第十六』です。ここには意訳すると「お釈迦様は人の身としては滅ぶけれど、仏の世界から他の方と一緒にずっとこちらの世界を見守っている。いつでも常に我々をどのように救おうかと考えているのだ。」と伝えられているからです。まさに我々日本人がもつ死後の世界観だと思いませんか。
この『法華経』は聖徳太子の頃に日本に入ってきた日本最古のお経の一つです。そして日本の仏教諸宗派の大本となった天台宗においても『法華経』が基盤となっていると言われていますし、日蓮宗以外の各宗派でも多く読まれているお経です。このように聖徳太子の頃から連綿と仏教の中で引き継がれてきた『法華経』、それは日本人がもつ死後の世界観に多大な影響を及ぼしています。例えば、仏教以外の世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教は亡くなった故人はいずれ復活する日まで休むだけ、と考えることが多いです(様々な分派・宗派あり)。あくまで信仰対象は神様を中心としたものであり、多神教の仏教が伝わった日本のように亡くなったら今度は仏様として見守る側に立つ、というのは世界からみると珍しい考え方です。ただ、私は故人たちと縁が切れないとても良い教えだと思っています。 この教えを元に私は皆様に供養をしましょうと声がけをしています。いつも見守ってくれている故人たちに対して我々は故人たちのことをいつも考えているでしょうか。忙しく、日々悩みがあふれる世の中ですからなかなか難しいでしょう。だからこそ、定期的に行う回忌供養などの際に家族や親族など「故人が見守っている人々」で集まり、我々の感謝や親愛の想いが変わっていないか、忘れていないかを確認して故人たちを供養するのだと説明します。
私も33回忌を迎えたこの機会に父のことを少し振り返りたいと思います。当寺院は元々境内が狭い、東京の小さなお寺でした。その為、檀信徒の方にはお墓を遠方の多摩霊園などにたてて頂くなど多くのご不便をかけていました。だからこそ、父は「皆様にたくさん来て頂けるように広い本堂を建て、境内に墓地を持ち、皆様が良く供養できて、良いお寺だと言って貰えるようにしたい」と東京のお坊さん仲間へ言っていたそうです。そして当時の住職だった祖父と移転を進めました。東京のお寺の土地売却に始まり、移転候補地探し、土地の買収、お寺の設計や役所への申請など、全ての作業に父が携わったこともあり移転事業は数年に及ぶ激務でした。その為か、お寺の移転をしてから3年ほどで父は亡くなってしまいました。ただ、その想いはこのお寺の広い本堂や客殿、境内の墓地として受け継がれています。平成元年の移転から35年程が経ち、葬儀の場所はお寺から葬儀会館が中心となり、核家族化・少子化の影響で法事などの参列者は少なくなりました。本堂や法事が小規模になっていくのは時代の流れだと思っています。ただ、「皆様が良く供養できて、良いお寺だと言って貰える」という想いは私も継いでいきたいと思います。
2024.06.02 鬼子母神大祭
智慧 (後半) 仏知見(ぶっちけん)
正しい見方や偏見などに囚われないことが一つの智慧だと前回のお彼岸の際に書かせて頂きました。ただ、これは本当に智慧の一部ですので更にもう一つ智慧のお話をさせて頂き、「智慧」というものがどれほど幅広い意味を持つのかを実感して頂ければと思います。前回にも書きましたが、仏教というのは「世の中の真理」というものに確かに触れていると思います。そういった世の真理に到達できるような仏様の知見を「仏知見」といいます。うちのお寺でよく読む『欲令衆』というお経文、これは法華経の重要部分を抜粋したものですが、そこには「衆生(我々)に仏知見を悟らせる為に仏様はこの世に出てきた」という文言があり、我々が「仏知見⇒世の真理を悟る、智慧」を身につけることこそ仏教が説かれた一つの理由なのだと思っています。なお仏様の教えは様々ありますが、一番有名なものとなると三相(一部の仏教では三法印、または四法印)というものがあります。仏教にはこんな文言があります。
①「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭(いと)い離れる。これが清浄への道である。
②「一切の形成されたものは苦である」(一切皆苦)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
③「一切の事物は無我である」(諸法無我)と智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。
誤解を恐れずに意訳するならば①諸行無常(世の中のものは全て変化していく)、②一切皆苦(この世は己の想いのままにならず、現実とのズレに苦しむ)③諸法無我(単独で確固たる「我」があるのではなく、全ては因果の繋がりである)と私は説明します。なぜこんな難しい言葉を持ち出してきたかというと、こういった世の真理を皆様は自分で見つけられますか?と問いかけてみたかったからです。我々人には時間や経験に限界があります。皆様も10代や20代などの若かりし頃、今とは考え方が大分違ったと思います。社会に出て働き始める・家庭を持つ・子供や孫が生まれる・海外などの異文化に触れる・コロナや大震災など予期しない出来事にあう、など皆様の価値観を変える様々なことがこの世には溢れています。全てを経験できる方はいませんし、国や時代が変われば文化や価値観が変わります。果たして正しい真理を我々は見つけられるでしょうか。私は個人では難しいと思っています。だからこそ、我々には多くの時代や国で語り継がれ、なお色あせることがない大局的な真理が必要になると思っています。それは法律であったり、文化であったり、宗教だと思います。特に仏教は世界宗教として数か国にまたがり紀元前からの長きに渡り語り継がれ、日本においては法律や文化の大元になったという実績は大局的な真理になりうるものだと思っています。そして仏教、特に智慧は人だけでなく、人よりも長く続く会社や国といった物も救っていくと思います。
例えば日本企業の社是として『三方よし』という言葉を聞いたことはないでしょうか。伊藤忠商事の社是として有名ですし、ホンダや住友、高島屋などにも影響を与えたと言われます。例えば伊藤忠のホームページには「初代伊藤忠兵衛が近江商人の先達に対する尊敬の思いを込めて発した『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉にある」という言葉が掲載されています。先日の不正をおこしたビッグモーターの救済も損得勘定だけでなく、その陰にはこのような社是があり、他者の為にという想いもあるのかなと感じます。 また国では、それこそ日本が一度仏教によって救われています。皆様は戦後、敗戦国となった日本が戦勝国からの賠償請求により、分割された植民地となりかけた歴史をご存じでしょうか。各地を六か国程度で分割する予定でしたし、東京に至ってはいくつかの国の共同管理、という有様でした。恐らく、この案が可決されていれば、今の日本はなかったでしょうし第二のイスラエル・ガザになっていたかもしれません。それを防いだのは同じく仏教国でもあったスリランカのジャヤワルダナ大統領です。以下、その功績を讃える碑文から抜粋・引用を致します。
この石碑は、1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコで開かれた対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示された、スリランカ民主社会主義共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルダナ前大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表すために建てられたものです。ジャヤワルダナ前大統領は、この講和会議の演説に表記碑文のブッダの言葉を引用されました。そのパーリ語原文に即した経典の完訳は次の通りであります。 『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。』 ジャヤワルダナ前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時セイロン)は賠償請求を放棄することを宣言されました。さらに「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々の主張した日本分割案に真っ向から反対し、これらを退けられたのであります。今から40年前のことですが、当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。今、除幕式の行われるこの石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る、慈悲と共生の理想を示す碑でもあります。この石碑から新しい平和な世界が生まれでることを確信します。
1991年(平成3年)4月28日 東京大学名誉教授 東方学院長 中村 元 謹誌
私は仏教によって会社や国、人が救われた事例を見ると日本という国が聖徳太子の時代から仏教と出会い、文化や教育に溶け込んで、今も我々を支えてくれている柱の一つとしてあるのだと実感します。もっと仏教は学ばれて良い存在だと思いますし、我々を長きに渡り支えてくれている仏教という柱をこのまま無くしてしまって良いのですかと問いかけたくなるのです。
2024.03.20 彼岸
智慧(前半)人の物事の見方
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元々お彼岸は仏道修行の期間ということもあり、毎年仏道修行の六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)に関する話を順番にさせて頂いています。今年はいよいよ最後の智慧になりますが、これに関しては説明に迷うというのが正直なところです。今までの六波羅蜜は他者への施しや忍耐、努力など、皆様も「確かに修行として必要だね」と納得してくれそうなものです。しかし、智慧は違います。どちらかというと頭の良さや先見の明などを想像される方も多いのでそれは修行なのか、という意見もあります。また「世の中の真理を悟る」「執着や苦を脱する」「知見」などいくつもの意味を含む「智慧」ですが、六波羅蜜という修行の中に挙げられている意味は①修行の集大成として身につけていくもの、②正しい修行の為に必要なもの、だと私は思っています。
①に関しては皆様すんなり理解してくださると思います。先ほど挙げた頭の良さや先見の明などは生まれついてのものではありません。もちろん才能として頭の回転が早い方はいるでしょう。しかし、そこに何の知識や経験もなければ宝の持ち腐れです。例えば今、頭が良いと言われて思い浮かぶ一人は将棋の藤井聡太さんでしょう。頭の良さは言うに及ばず、先見の明に関しても将棋では40手程先まで読み切ると言います。対戦相手がどの手を打ってくるか迷う場面もあるでしょうからそれらも含めて40手というのはちょっと想像ができませんね。しかし、そんな彼も幼いころから将棋のことを学び、考え続けてきたからこそ前人未踏の八冠に届いたはずです。何も学ばず、何も経験しなければ頭の良さだけあってもただの凡人です。だからこそ、智慧を身につける為に修行や努力が必要だ、という話になるのです。
②に関してはどうでしょう。一番わかりやすい例は我々の身近にある「精進⇒努力」の例でしょう。努力をする際に闇雲に勉強した、練習したとしても結果がついてこないことは多々あります。もしくは、目標の為にしていた努力が実は見当違いで余り役に立たなかったりなど皆様にも覚えはありませんか。正しい努力をするためにも、正しい「見方、視点、認識⇒智慧」が必要なのです。先ほどの藤井さんの例でいえば、彼は将棋の練習をする際にAIを多用するそうです。2010-2018年に開催されていた「電王戦」という将棋のAIと人間の棋士が戦う試合があり、藤井さんは将棋で伸び悩んでいる時期にその電王戦を見たそうです。2018年以後は既に棋士はAIに勝てなくなったと言われ、役割を終えたとして開催されていません。ただ、藤井さんの場合はそこで終わりではありません。今までは人から教わった流派や将棋で最善手とされていた定跡(囲碁は定石)と呼ばれる打ち方も含めて研鑽を積んできましたが、自分の今までの打ち方をAIを通して分析したそうです。そうすると、手が限られてくる終盤は得意でしたが、打ち方が無数にある序盤から中盤の指し方には改善の余地が見つかったそうです。
AIというのは人とは違う見方をします。体系的に分かりやすく人に将棋を教えるという意味ではやはり人に敵うものはないそうです。他にも棋士として長時間に及ぶ対局の過ごし方やミスをした後の気持ちの切り替え方などもAIから学ぶことはできません。しかし、単純に勝負の中で将棋の手を読むとなると藤井さんの40手よりはるかに先を読んでいきます。そういった違う視点を通して自身を見つめ直し、前に進めるようになるというのは確かにひとつの「智慧」だと思います。実際、藤井聡太さん、iPS細胞の山中伸弥さんの対談をまとめた本『前人未踏』から本人の言葉を引用すると
「今のAIは強化学習によって、人間とは違う価値観、感覚が進歩してきたように感じます。それまで人間が気づかなかった手や判断を示されることもあるので、今までの価値観が刷新されてきて、むしろ自由度が上がったという感じがします。自分としてはAIを活用することで自分の将棋の新しい可能性を感じ、それで自分の棋力をより高めることができると思っています。」と述べられています。この「自由度⇒囚われなくなる」というのが「智慧」の効果だと思います。
我々は普段何気なく生活しているだけで色々なものに囚われがちです。世間の流れや常識、経験、更には周囲との人間関係、様々なルールなど色々なものに触れながら生きています。それらは「より良くなりますように」と願って皆で決めてきたことなのでとても大切なものだと思います。ただ、それらに長く、何度も触れていると自然とそれらに関して考えることをやめてしまいます。心理学では「認知バイアス」と呼ばれますが、これは「考える」という負担を減らすための脳の機能だと考えられています。しかしデメリットも多々あって例えば先入観や偏見に繋がります。一番わかりやすいのは「安かろう、悪かろう」でしょう。ただ、安いものでも確かに良いものはありますし、高いからと言って一律良いものとは限りません。また、自分は大丈夫という過信にも繋がると言います。日常を問題なく過ごしていると自信を深めた方こそ、○○詐欺にかかることが多いのです。こういった認知バイアスに囚われない為にどうすれば良いかというと心理学では「正しい認識を持つことや別の視点をいれるなどの比較をする」「因果関係、どうして安くなったのか・高くなったのか、儲けられる理由や仕組みを探る」とあります。先ほどの藤井さんの話にも出てきた将棋の定跡というのはある意味の「認知バイアス」でもあります。それらをAIという人とは別の視点を通じて改めて考えた結果、その定跡に前ほど囚われなくなったからこそ、先ほどの「自由度が上がった」という話に繋がるのだと思います。
ここまでは皆様にも理解しやすく心理学の話を絡めましたが、認知バイアスの弊害を避ける為の心がけは「因果」や「正しい認識、別の視点⇒智慧」など仏教の教えと同様だと思います。むしろ紀元前から伝わるという歴史の長さを考えれば仏教こそが本家本元でしょう。仏教は古臭い、宗教は怪しい、それも一つの認知バイアスだと私は思っています。言葉こそ違いますが先端科学にも通じるほどの知見、「世の中の真理」という部分に確かに仏教は踏み込んでいます。「良いものは良い」、囚われずにそう言えるのも一つの智慧だと私は思っています。
2024.01.01 新年
コロナ後の新年を迎える―少欲知足
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旧年中、コロナや戦争、物価高など色々とありましたが皆様と共に新しい年を迎えることができました。思えばコロナが五類に下がり、コロナが明けたと言われてから初めて迎えるお正月です。皆様も家族で集まるなどイベントごとが増えてきたのではないでしょうか。そういった時期の話として明るい話題か暗い話題かは悩んだのですが、今回はコロナという暗い時期をあえて振り返りたいと思います。ずっとこの話をしたいなと思っていたのですが五類に下がったばかりの昨年の五月頃はまだ皆様困惑して実感が持てず、余り心が落ち着かなかったように思います。それから半年、ようやく心が落ち着き、旧年を振り返り新しい年を迎えるこのお正月でぜひ振り返るべきだと思いました。
今回のコロナパンデミックは第二次世界大戦後、最大の災害でした。勿論、戦争と疫病を同一では語れません。死者数も第二次世界大戦は8500万人、コロナは680万人(どちらも数字は諸説あり)ですから文字通り桁違いです。ただ、コロナの感染者となると感染者は6億7千万人(累計)、これは世界人口が80億人といわれている中、相当幅広い国で長い期間に渡り影響を及ぼしたというのが分かる数字です。一部の国や人だけでなく、全世界に共通する話題として今後何十年も語り継がれていく出来事だと思います。そのように大きな出来事でしたから、そこから学ぶ「教訓」「影響」といわれるものがいくつも出てきたと思います。ウィルスやワクチンに関する医療系のものから始まり、非常事態宣言などに関する政治的なもの、果てはオンラインでの仕事や学業の推進という生活様式に至るまで幅広く見直されました。これらは今後長く日本や世界に影響を残し続けるでしょう。ただ、それらはあくまで社会的なものが多く、皆様個人としては何か教訓を得られましたか?
私が思うに、コロナというのは日本にいると余り普段感じたことのない「命の危機」というものを多くの方が間近に体験した日々だったと思います。仏教では「臨終」という言葉がありますが、これは命が終わる最後の時を表すばかりではなく、「死」や「命」というものをどのように捉え、どのように考えるかという意味もあります。日蓮聖人などは「まず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」という言葉を残しているほどです。お釈迦様の時代も日蓮聖人の時代も死者というものはすぐ近くの道端に遺体がある、というほど身近なものだったはずです。だからこそ、「死」や「命」に対して真剣に向き合って悩み、仏道修行をされたのでしょう。ある意味、我々もコロナという「命の危機」の時間を過ごしたことで一つの仏道修行を積み、教訓を得ているのではないかと思います。それは恐らく皆様も聞いたことがある「少欲知足」というものです。
例えば「少欲」に関しては欲望のコントロールのことをいうのですが、このコロナの期間で皆様は感染対策の為に色々な欲を抑えてきたと思います。
また「知足」に関しては色々な捉え方があるのですが今回は「大切なものが何かを考えた」のかなと思っています。うちのお寺では人が亡くなった場合、その方の生前の行いを遺族から聞くようにしております。そしてここ数年で亡くなった方の中には「遠方の孫らに会えなくなった」「旅行や撮影の団体に所属していたが、楽しみにしていた活動ができなくなった」「毎年、地元の同窓会や勤めていた会社のOB会に出ることを楽しみにしていたが、そういった人との繋がりが無くなってしまった」などコロナの影響による人との縁や楽しみが無くなったという声が多く聞かれました。そしてそれらがとても大切なものであることに無くなってから気づき、急に気力体力が弱ったという方もいました。やはり人に「生きがい」というものは必要なんだなと日々感じていました。そういったコロナ前は他の大勢の人たちもやっているし当たり前だと思っていたことが実はとても大切なのだと気づいた方も多いと思うので、これもひとつの「知足」だと思っています。
昔から日本ではこの「少欲知足」の精神が大切にされています。世界的にみてもコロナ前からではありますがSDGsなど「欲張りすぎず、持続的なより良い世界を」とでもいうべき機運が高まっているように見えます。ある意味、当然なのです。限られた時間、限られた資源の中で生きている我々が人と争わず、協力して生きていこうと思えば「少欲」というのは当然の道理だと思いますし、その気持ちを忘れないためにも現状の日々が当たり前ではなくとても貴重なものだと認識する「知足」というのは必要な気持ちだと思います。ただ、これらは普段順調にいっている時にはなかなか学ぶことが難しい道理です。SDGsが人口増加による資源の枯渇や環境汚染による成長の限界が見え始めて議論されたように、我々もコロナという普段の行いや命を見つめ直す時期を送ったことで改めて「少欲知足」を自覚できる機会を貰ったように思います。ただコロナを「辛く、苦しい時期」とするよりも仏教の蓮の教えである「泥を糧に華を咲かせる」かの如く、その時期を将来の糧とする方が建設的ですし、仏教的です。
世の中、人の見方によって様々に変化すると言われております。上記のコロナ時期の捉え方もそうですし、例えば使い古した家具をゴミとみるか、愛着のある宝物と取るかは人の見方次第でしょう。
新年早々、感染者や死亡数の話など余り明るい話題とはいきませんでしたが、この「少欲知足」の見方によって日常が当たり前でなく尊いものだと知れば、普段の日常が、そして本年が明るい年に見えてくるのではないかなと願い、この話を年初にさせて頂きます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
back number
2024.06.02 鬼子母神大祭
●智慧 (後半) 仏知見(ぶっちけん)
2024.03.20 彼岸
●智慧(前半)人の物事の見方
2024.01.01 新年
●コロナ後の新年を迎える―少欲知足
2023.08.14 お盆法話
●「川の流れのように」/美空ひばりさんを偲び
2023.06.04 鬼子母神大祭法話
●「祈ってください」とChatGPTにお願いしてみた
2023.03.21 彼岸法話
●禅定 心の安定
2023.01.01 新年
●新年を迎えるにあたり 心を前に動かす
2022.08.13 お盆
●安倍晋三元総理のご冥福を願い
2022.03.21 春彼岸
●ウクライナ問題、収束を願い
2022.01.01 新年
●コロナから前に進む
2021.06.12 鬼子母神祭
●幸せの素人
2021.03.19 春彼岸
●六波羅蜜の「精進」について
2021.01.01 新年
●暦とは何か(年月日のお話)
2020.12.02 年末
●人形供養に関して
2020.08.23 お盆
●葬儀の説明(変えるもの、変えぬもの)
2020.06.08 鬼子母神大祭
●灯(ともしび)について
2020.03.18 春彼岸
●六波羅蜜の「忍辱」について
2020.01.01 新年
●中村 哲(なかむら てつ)医師を偲んで
2019.06.01 鬼子母神大祭
●川崎市の児童殺傷事件を受けて
2019.03.19 春彼岸
●六波羅蜜の「持戒」について
2019.01.01 新年
●平成の終わりに際して
2018.05.01
●通夜・葬儀・49日・回忌法要
2018.0501 鬼子母神大祭
●四諦(したい)八正道(はっしょうどう)
2018.03.18 春彼岸
●六波羅蜜の「布施」について
2018.01.01 新年
●新年を迎えて
2017.08.08 お盆
●盆施餓鬼供養の説明
2017.06.05
●御首題・御朱印の説明
2017.05.01 鬼子母神大祭
●御札・御祈祷の法話
2017.03.18 春彼岸
●仏道修行