住職法話 2017年(平成29年)

2017 住職法話

2017.08.08 お盆
盆施餓鬼供養の説明

そもそも「お盆」というものは仏教だけで始まったわけではありません。由来としては前回お書きした目連尊者のお母さんへの供養ということが挙げられますが、日本でここまで「お盆」として定着したのは「御霊(みたま)祭」ということで先祖を祀る習慣と一緒になった為です。帰ってきた先祖と共に過ごし、感謝の念を伝えながら共に過ごし、「もてなし」(お供えや迎え火、送り火、盆踊りなど)をするという意味合いで様々な習慣ができました。  では今度一緒に行う「施餓鬼」とはなんでしょう?これも前回のお知らせに書いた通り、阿難尊者の由来のように死後も飢え渇き、苦しんでいる「餓鬼」という存在に供養をすることで救うことを目的としたものです。なぜこのようなことをするのでしょうか?  この二つの行事、別々にやるお寺もあれば一緒にやるお寺もあります。ただ、なるべくこの7、8月という同じ時期に行う理由は非常に繋がりが深いからです。

 仏教ではそもそも人というものは助け合いながら生きていくもの、ということが説かれています。誰も一人だけでは生きていけませんし、そもそも自分一人だけではこの世に生まれることすらできません。私たちがここにいて、今生きているのは必ず「誰かのお蔭で」という言葉がつくのです。ならばこそ、仏教では自分一人が救われるのでは足りないと説いています。どの仏教の宗派でも必ず「皆共成仏道」(皆共に仏道を成じて救われん)という言葉を使うのはその思想が仏教の根本にあるからです。  この思想があるからこそ、父親・母親、そしてその親である祖父・祖母、さらにはその先祖というものを「あなた達がいたから、今私はここにいる」という感謝の想いをもって供養していくのです。特にこちらに帰ってくるなら「もてなし」の一つもしたい、それこそが「お盆」というものです。

 そして父親・母親を始めとした先祖というのは一人だけや身内の親族だけで生きてきたわけではありません。仕事に行けば仕事場の人間に、買い物に行けばお店の方に、様々な方と支え合って生きていきます。そしてその支え合った方もまた誰か別の方と支え合っている、そんなことを考えていくと、この世に縁の無い人というのはおらず、縁の多少はあるとしても皆が支え合っている、という構造が見えてきます。その構造を認識した時、確かに仏教の「皆共成仏道」という思想は正しいと思うわけです。例えば自分だけ、例えば家族だけが幸せになりたいと願っても友人や職場、普段お世話になっている方々などが不幸になったとき、心の底から自分の幸せを喜べますか?自分の周囲が幸せでも毎日ニュースで戦争や大飢饉などの惨事が伝えられたとしたら心穏やかに日々を過ごせますか?そういったことを考えれば皆共に幸せになる、というのが一番良いでしょう。その皆共に救われたいと願う心こそが自分だけでなく、他者の幸せも願う「菩薩(慈悲)の心」というものであり、仏道において大切なものです。

ただ、実際にこの世で人一人が全ての人を救えるかというとそんなことは残念ながらありません。人事を尽くしたとしても人一人の時間や体力などが有限である以上、自分とその家族、そして縁の深い方々くらいでしょう。ただ、だからこその「施餓鬼供養」です。うまく周囲の方々から支えて貰えず、煩悩に囚われたまま成仏できずに苦しむ方々が「餓鬼」であり、彼らは死してなお、満足も感謝の心も知らず、貪り続けるといわれます。前述の「この世に縁の無い人はいない」ということを踏まえると、そんな中にもかつての自分を支えてくれた人や先祖を支えてくれた人がいるでしょう。死してなお苦しむこの方々に、自分だけ良ければという煩悩を抑えて、皆共に救われんとする慈悲の心をもって施すことが苦しみ続ける「餓鬼」を救うことにも繋がりますし、自身が仏道を歩む上でも大切なことだと説かれています。

 これらの感謝と慈悲の心、どう仏道の供養を行う上で大事なのでしょうか。例えばお焼香、「3回やることが大事」と思っていませんか?例えば回忌法要、「33回忌までやることが大事」と思っていませんか?  法事などに関する供養は心が抜け落ちると、途端に「作業」「世間のマナー」などに成り下がってしまいます。例えばお焼香の3回には「仏法僧」(仏様、仏教、僧侶)にそれぞれ捧げるものという所もあれば煩悩の三毒(むさぼり、怒り、無知)を焼き尽くすなどの意味を込める方などお寺ごと、宗派ごとにバラバラです(当山では回数は何回でも構いませんが、皆様を守って下さる「仏様や仏教」と「先祖や故人」への感謝を込めて下さいと伝えています)。ただ、共通しているものは3回やれば良いというものではなく、心を込めて願うことです。

 また回忌供養に関しても33回忌というものは「33」という数字に意味があるわけではなく(お寺によっては数字に意味を持たせて説明する所もございます)、息子や娘が親を供養すると順当にいけば33回忌くらいが限度だからです。回忌とはそもそも亡くなった年を「1」として、数え年と同じ数え方で進むもので毎年やってくるものです。それを10年のうちで2回、「3と7」の時は少し盛大に供養しましょうというものが回忌法要です。その為、「3、7、13、17、23、27、33」と続きますが、大切なのはこの回数ではなくて自分が生きているうちは親や旦那さん、奥さんなどに感謝の心を込めて供養をしましょうということです。ですから私のように父親を早く亡くした場合は43回忌や47回忌も行うでしょうし、逆に親がとても長生きした場合は33回忌より少なくなるかもしれません。それは家庭の事情それぞれです。ただ、これは支えてくれた人への感謝を伝えるものなのでよく言われる長男ではないから供養はしないというのも「世間のマナー」に囚われてしまっていると思っています。心を込めるからこそ、回忌法要や年中行事などの法事は私ではなく、縁や想いの深い皆様方こそ主役であり、大切にして頂きたいとお伝えしています。

 よく仏教の作法がわからないといわれますが、それは形式から入ってしまう場合が多いからだと思っています。心を込めて供養するためにどういう形が行いやすいのか、本来仏教の作法とはその為にあり、心の次に来るべきものです。心を込めて「ありがとう。どうぞ安穏に。」と願いながら焼香を行うと動作は自然と丁寧にになります。この盆施餓鬼という行事は皆共に救われんとする仏教の本懐を体現したものです。ぜひ、この機会に供養の心を今一度見直して頂ければと思います。


2017.06.05
御首題・御朱印の説明

以下は御首題・御朱印のお参りに来て下さった方に対するメッセージです。理解を優先するために住職個人の私的見解も交えてあります。その為、この文章をSNSなどへアップすることはご遠慮ください。読む方によっては誤解を招く恐れがあります。

〇御首題 ‐ 南無妙法蓮華経 ‐
仏教ヲ解シ、人事ヲ尽クサバ大難ハ小難ニ小難ハ無難ニ
日蓮宗の寺院である瑞法光寺ではこの御題目『南無妙法蓮華経』という言葉を非常に大切にしています。そもそも『南無妙法蓮華経』とはなんでしょうか?これは仏教を説かれたお釈迦様が説かれたお経の「題名」です。  それもただのお経ではありません。お釈迦様が晩年に今まで救われないと説いていた方々もいずれは救われ、全ての者が救われて成仏することこそがお釈迦様の本懐であると説かれたお経です。どの宗派も読む「観音経」もこのお経の中の一説です。  そういった様々な功徳を秘めたお経を顕す「題名」こそが『南無妙法蓮華経』なのです。その為、日蓮宗ではこの御題目はお経の全ての功徳を備え、諸天善神の御守護を受ける言葉として法要の際には必ず唱えられています。  日蓮宗寺院が御朱印は無くても御首題があるのはそういった理由です。  ちなみに後半の文章は住職の個人的な想いです。人事を尽くさないで祈れば何でも叶う、と思うのは間違っていると思うからです。最初に「仏教ヲ解シ」とつけているのは仏教の中には様々な生きる教えがあります。その中には「正しくものを見る」「欲に囚われない」などの教えもあります。そういった教えを理解して正しい方向に、正しい努力の仕方で人事を尽くした方が良い、ということを顕しています。

 〇御朱印 ‐ 手を尽くすと手を合わせたくなる ‐
先ほどの続きを形にしたものです。人事を尽くさないで祈るのは間違っていると書きましたが、逆に人事を尽くした場合、人は不思議と何かに祈りたくなります。  皆様は受験などの時に神頼みをした経験はないでしょうか。もしくは自分や他の誰かの手術などでも結構です。このような状態の場合、もう既に「自力」でできることは全て行っている場合が多いです。そして後は神仏や他人などの「他力」に頼るしかないのです。「他力」ばかりではいけないと思いますが、全くそれをあてにしないというのは難しいものです。私は「自力」を尽くした場合はぜひ、仏教において、全てが救われるといってくださったお釈迦様にお願いしてほしいと思います。なぜなら、この日本という国に住んでいる場合、皆様は自然と仏教の考えを受け継いでいるからです。例えば、「頂きます」と食事の前に言って手を合わせる習慣、大人になってからはできてないけど、小さいころに教わりませんでしたか?あれは「食べ物」となった「生き物」の命を「頂きます」という全てに感謝する仏教の考えから来ています。また、日常生活の中でも自然と皆様は仏教の功徳を積んでいます。皆さんは我慢をしたことはありますか?誰かと協力をしたことはありますか?何かを反省したことはありますか?それらは全て仏教の修行にあてはまるものです。そういった修行を積んでいる者は護られると説かれている「仏教」に祈ることが一番理に適っていると思いませんか?

〇御朱印 ‐ 泥あればこそ見事な蓮は咲く ‐
ここからは仏教の教えで特に有名なものを二つご紹介します。
まず一つ目がこの「泥中蓮華」です。仏教のマークとしてよく登場する「蓮」ですがなぜ蓮がこのように大切にされているのでしょうか。それはこの「泥中蓮華」の教えがある為です。 「蓮」という華は綺麗な高原や川などには咲かないのです。ではどこで咲くかといえば汚く濁った泥のある場所でこそ、泥にまみれることもなく一番綺麗な華を咲かせるのです。仏教も同じだといわれております。この苦しみ(ままならない)ことが多い世の中でどのようにその苦しみを栄養に変え、綺麗な華を咲かせるかを説いたものが仏教です。だからこそ仏教は辛い事や苦しいことを否定しません。それらは嬉しい事や楽しい事の裏返しです。また、嫌なことを「我慢」する、辛い事を振り返って「反省」する、これらが仏道修行に数えられているのもそこで積んだ経験こそが、自分が成功するきっかけになった、あるいは同じ境遇にある他人の気持ちを察することができるなど、後に綺麗な華を咲かせるためには必要だと説かれているからです。皆さんにもそういった経験、ありませんか?

 〇御朱印 ‐ 張り過ぎても緩み過ぎても良い音は出ない ‐
 仏教の教えで有名なもの、二つ目は「中道」という考え方です。この考えは正確に説くのがとても難しいです。なぜなら様々なお経文で広く重んじられ、その時々で様々な説明がされるからです。ただ、私としては以前、仏教大学の先生がわかりやすく噛み砕いてくださった表現が一番だと思っておりますのでそれをご紹介します。  私たちは一つの大きな「道」を歩んでいます。皆さんは中道を意識した時に「道」のどこを通りますか?「端っこ」というのはどうでしょう。ちょっと偏りすぎるでしょうか?そうすると「真ん中」というのが一番良いかもしれません。端っこよりは無難に通れそうな気がします。「中道」という言葉からしてこの「真ん中」というのが正解、と思いがちなのですが実はこれが間違いです。「中道」というのは実は「囚われないこと」こそが本意だといわれています。「端っこ」・「真ん中」、このように決めた「道」を通り続けることは「囚われる」ということです。
 例えば全く平坦な道というのは珍しいと思います。起伏に富んでいたり、道端の方に行けば木陰があり、切り立った崖や池や沼もあるでしょう。そして「端っこ」や「真ん中」にはそれぞれ長所・短所があります。例えば「端っこ」は木陰で涼めるかもしれませんし、道の途中に池や沼があった場合、一番簡単に迂回できるかもしれません。そのかわり、崖などは落ちる危険があります。「真ん中」に関してはより視界が広くとれたり、崖に落ちる危険性が減ったりと良いこともありますが、池や沼を超えるには大回りをしなくてはいけないかもしれません。だからこそ、時には真ん中を通って視界を広くとったり、時には端っこで木陰で休んだり、その時その時の最良の行動をとること、これこそが「中道」です。これだけ聞くとそんなの当たり前だといわれそうですが、皆さんは「経験則」というものをお持ちですか?その「経験則」、もちろん有用だと思います。過去の経験に照らし合わせるわけですから失敗しづらいですし、判断も早くなります。ただ、その陰にもしかしたら新たな条件や状況があるかもしれません。その時に、あなたの「経験則」は本当に「最良の行動」でしょうか。「囚われない」ということは誠に難しい、だからこそ、悟りに至る道として各所で紹介をされているのだと思います。ぜひ、自身に問い直してみてください。


2017.05.01 鬼子母神大祭
御札・御祈祷の法話

まず、仏教の御加護を得るなら、仏教の教えを守ることが必要です。 まずは一番重要だと思われる「中道」。これは本当に簡略化するなら「様々なものに囚われずに、その時その時に人事を尽くして最善の道を選択すること」だと思ってください。詳しくはとても大切なことなので別の機会に説明したいと思います。そして「中道」を歩む中でなるべく避けたい悪い結果に結びついてしまう、悪因があります。例えばその有名なものが下記の「十悪」です。
■身による悪
①殺生(せっしょう) 生きものの生命を奪う。
②偸盗(ちゅうとう) 与えられていない他人の物を盗み。束縛する。
③邪婬(じゃいん)  よこしまな男女の交わり。

■口による悪
④妄語(もうご)   嘘をつく。でたらめを言う。詭弁をろうする。 
⑤綺語(きご)    綺麗事などの無益なこと。見栄を張ること。
⑥悪口(あっく)   陰口や誹謗中傷などの他人を傷つける。
⑦両舌(りょうぜつ) 二枚舌など、他人の仲を裂く。

■意(心)による悪
⑧慳貪(けんどん)  財物や地位、権力、愛情などをむさぼる異常な欲。
⑨瞋恚(しんい)   怒りや憎み、妬み嫉み。わがまま。
⑩邪見(じゃかん)  思い込みや偏見などの誤った見解や行動。

その為、仏教では悪因を断つために仏教の基本と伝えられる言葉を唱えます。 諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう) ⇒様々な悪をなすことなく、善い行いを積み、心を清浄とする。これ仏教の教えなり。 中道を進み、十悪を避けていけば悪因を結ぶこともなく、多くの悪果を避けていくことができるはずです。 その上で、こういった仏教の教えを説いてくださったお釈迦様が、仏教を信じ、守る者。特に一番大事な「南無妙法蓮華経」という教えを信じる者は鬼子母神様を筆頭に神仏が守護する、というお経の一文があります。だからこそ、法華経を信じる日蓮宗では守護神として鬼子母神様を大切に祀っています。 この「鬼子母尊神大祭」の御祈祷は、我々が仏教を信じ守ることを鬼子母神様に報告し、我々を御守護くださいという願い、いつもお守りくださってありがとうございますという感謝を伝える為の御祈祷です。祈る対象こそ違いますが仏教以外の他宗派もこれはかわりません。

お配りするお札にもそれ相応の意味を込めています。まずはスペースの関係で入らなかった「交通安全」を除き、全てのお札に記載がある「仏教を解し、人事を尽くさば、大難は小難に、小難は無難に」という言葉。この言葉は先述した内容を私なりにまとめたものです。  

  その上で、身体健全や交通安全などのお札がありますが、それぞれ十悪や仏教の教えの中で心がけた方が良い言葉を書かせて頂きました。 今回はその中の一つ、「病気平癒」に関して話していきたいと思います。

 ただ、その前に「十悪」に関して一番重い悪はどれかということを書かせて頂きます。 「十悪」の中で一番重い「悪」、それは「邪見」だといわれています。なぜ「殺生」などではないのか。それは法華経が悪人成仏も説いているお経であるからです。例え、諸々の罪を犯したとしても、それを反省し、償っていけば長い道のりは必要だがいずれは救われると説かれる為です。ただ、「邪見」とは思い込みや偏見で物事を正しく見ないことですが、同時に慢心などにより話を聞かないということにも繋がります。全てを救うという仏教の教えでも、その教えが説かれる際に、私達には必要ないからといって教えが説かれる前に退場した方がいます。その方々は教えに出会えなかったわけで救われないのではないかということが昔から議論されています。

 さて、話は戻りますが「病気平癒」の場合、お札には「一病息災 笑門来福」と書かせて頂きました。人は大きなくくりでみれば必ず「病」にはかかります。足を良く使えば足が、頭を良く使えば頭がです。ならばこそ、避けることの難しい「病気になった」という悪因に囚われて塞ぎ込み、心まで病み、妬み嫉みや邪見に陥るよりも、楽しいことは楽しく、明るいことは明るく、心を清浄にして、笑う方が人生の為にも治療の為にも最善です。

 先日、小林麻央さんが亡くなられました。同年代で闘病を応援していた一人として衝撃を受けました。彼女は多分、私がこうやって皆様に語りかける何倍もの実感を込めて、何倍もの人々にそれを伝えてきました。昨年、彼女が投稿した「色どり豊かな人生」という題名の文書を抜粋します。 「当時、私は病気を隠すことを選びました。隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。しかし、緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。『がんの陰に隠れないで!』 病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。」 まさに、と思った文章でした。彼女は自分で、病気を原因として自分の人生をかげらせてしまう「邪見」を振り払っていました。尊いことだと思いますし、それをさらに多くの方に伝えた小林麻央さんは尊敬すべき方だと思います。

もう一人、私が尊敬する方として仏教の思想や人生への想いを詩や書に残した相田みつをさんがいます。大祭でも触れましたが今回のこの「一病息災」という言葉は彼が残した言葉に影響を受けたものです。全文は「一病息災 貧乏神同居 しかもかくのごとくなりといえども いのち明朗 いのち満点」です。病にかかろうとも、貧乏神がいると思えるくらい苦しくても、いのちは明朗であり、いのちは満点なのだ、という言葉です。私達は生きること、老いること、病にかかること、死ぬことをもっと「邪見」を捨てて向き合うべきだと思います。         


2017.03.18 春彼岸

彼岸はこの世(我らの世界)とあの世(仏様の世界)が近くなる日と伝えられております。 それ故に、亡くなった故人や先祖などに祈りが届きやすくなる供養の日であり、 我らが仏様に近づけるように仏道修行をする修行の期間としても伝えられています。 今回はこの仏道修行を中心に話をします。

○仏道修行には次の六つがある。
  1.布施(ふせ)・・・人に施しを与えること
2.持戒(じかい)・・・法律や皆で決めた決まりを守り、省みること
3.忍辱(にんにく)・・・苦しくても耐えること
4.精進(しょうじん)・・・努力すること
5.禅定(ぜんじょう)・・・心を落ち着かせ、安定すること。
6.智慧(ちえ)・・・正しく判断力をもち、ものごとの真実を見る目をもつこと。

○これらを行うために必要な心
1.自分だけではなく、人のためにも、という慈悲の心が必要
2.苦しみに耐える時も、怒りや憎しみなどの感情に囚われず、穏やかな心を保てること
3.正しい判断力を持ち、人事を尽くすこと

○これらを行うと最終的には
「善答問難」、人生の様々な悩み苦しみに自分で答えを出すことができ、ほかの人には良いアドバイスができるようになる。 そして自分だけでなく、ほかの方も共に仏道を歩んでいく、これが仏道修行の概略です。

松井秀喜選手の座右の銘、心理学者ウィリアム・ジェームズの言葉 『心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。』



back number

▶2024年 住職法話一覧

2024.03.20 彼岸
●智慧(前半)人の物事の見方

2024.01.01 新年
●コロナ後の新年を迎える―少欲知足


▶2023年 住職法話一覧

2023.08.14 お盆法話
●「川の流れのように」/美空ひばりさんを偲び

2023.06.04 鬼子母神大祭法話
●「祈ってください」とChatGPTにお願いしてみた

2023.03.21 彼岸法話
●禅定 心の安定

2023.01.01 新年
●新年を迎えるにあたり 心を前に動かす



▶2022年 住職法話一覧

2022.08.13 お盆
●安倍晋三元総理のご冥福を願い

2022.03.21 春彼岸
●ウクライナ問題、収束を願い

2022.01.01 新年
●コロナから前に進む



▶2021年 住職法話一覧

2021.06.12 鬼子母神祭
●幸せの素人

2021.03.19 春彼岸
●六波羅蜜の「精進」について

2021.01.01 新年
●暦とは何か(年月日のお話)



▶2020年 住職法話一覧

2020.12.02 年末
●人形供養に関して

2020.08.23 お盆
●葬儀の説明(変えるもの、変えぬもの)

2020.06.08 鬼子母神大祭
●灯(ともしび)について

2020.03.18 春彼岸
●六波羅蜜の「忍辱」について

2020.01.01 新年
●中村 哲(なかむら てつ)医師を偲んで



▶2019年 住職法話一覧

2019.06.01 鬼子母神大祭
●川崎市の児童殺傷事件を受けて

2019.03.19 春彼岸
●六波羅蜜の「持戒」について

2019.01.01 新年
●平成の終わりに際して



▶2018年 住職法話一覧

2018.05.01 
●通夜・葬儀・49日・回忌法要

2018.0501 鬼子母神大祭
●四諦(したい)八正道(はっしょうどう)

2018.03.18 春彼岸
●六波羅蜜の「布施」について

2018.01.01 新年
●新年を迎えて



▶2017年 住職法話一覧

2017.08.08 お盆
●盆施餓鬼供養の説明

2017.06.05
●御首題・御朱印の説明

2017.05.01 鬼子母神大祭
●御札・御祈祷の法話

2017.03.18 春彼岸
●仏道修行



法務一覧

上に戻る
電話でお問合せする